Twitter: 難しきもの

このアカウントを始めて半年ほど、ホモの世界を垣間見てやはりTwitterは剣呑な感じがして難しいと思う。苦手と言ってもいいかもしれない。フォローする人を自由に選べるのは良いところだ。自分が気になった人のみをフォローするのが通常だろうし、実際自分もフォローした人のツイートを楽しんでいる。ただなんらかの方法でどうしてもFF外のツイートが流れてきて、毎日どこかで小競り合いが起きているのを知る。普通は他人の小競り合いなどは気にしないのだろうが、自分は元来いやに細かいところがあって、そういうのを目にするたびに心苦しくなる。要は、メンタルが弱い。Twitterやめろと言われそうだが、誰かが争ってるのを見て気持ちの良い人はあまりいないだろう。他人のことに口を挟むつもりは毛頭ないが、それを目にするたびただ心に負荷が積み重なる。じわりと削られていく感じがあって、それは楽しげなツイートを見ても相殺されるものではないようだ。それでもTwitterを続けるのはなんとなく何か得られそうな感じがするからであって、心が擦り切れる前に良い出会いがあればと思う。そんな小賢しいことを考えながらTwitterをするものではないだろうが、何か原因があるとすれば自分の元来の気の弱さなのであろう。

読み返してみると支離滅裂な文章だ。こういう前後のつながりが曖昧な文章は箇条書きにすべきものだろうが、それはあまりに味気ないのだ。

スマホの見過ぎでがんになる

前回水素水についてブログを書いたが、それに関連してトンデモ科学について考えてみようと思う。スマホの見過ぎでがんになる、と言われたらどう思うだろうか。これぞまさにトンデモ科学、スマホ見過ぎでがんになるならそこらじゅうがんの人だらけだ、と思うだろう。タイトルの書き方が少し悪かった。スマホの見過ぎはがんのリスクをあげる、だとどうだろうか。何が変わったんだという感じだが、個人的にこの主張は無視できないと思う。

スマホの光はいわゆるブルーライトを含む。昼間のブルーライトは問題ないが、夜間に目に入ってくるブルーライトは我々の概日リズム(1.2年前にノーベル賞になったやつ)を乱す。概日リズムの乱れは代謝に影響を及ぼし、代謝と密接な関わりにあるがんの発生に影響を及ぼしうるかもしれない。

と、簡単に書いた。スマホブルーライトを含む、夜間のブルーライトは概日リズムを乱す、概日リズムの乱れは代謝の異常を起こす、代謝と発がんは関連している、など個々のパーツはある程度(ここ重要)証明されている。だがスマホ→がんという図式は証明されていない。この証明には前回のブログと同様ランダム化された比較試験を行う必要があるだろうが、無論そんな研究はない。まずスマホというものがあまりにも溢れすぎていて、それが発がんに関連すると疑っても検証が困難になっている。喫煙率が高すぎて喫煙と肺がんの関係がほとんど埋もれていたかつてのアメリカを思わせる。

では、このように証明されていないことについては全く信用しない方が良いのであろうか?スマホはがんに関係しないから布団の中でがっつりスマホを見るのは好ましいのだろうか?前回の記事ではエビデンスのないものは信用しないのがよいという口ぶりで書いたが、場合によりけりだと思う。すなわち、完全にエビデンスがあると証明されたものしか信用しないなら科学は一歩も進歩しない。新しいものは初めはエビデンスがなくて当たり前である。大切なのは、論理的に考えて仮説を立てて検証をするという、当たり前のことである。スマホの例だと、各パーツについてそれぞれ証拠があり、論理のつながりもまあありえそうである。だから全面的には信用しないが切り捨てはしない。

世の中のほとんどのものは中庸が大切だ。エビデンスがないものは信用しない。が、完全なエビデンスがなくても信用したほうがいいものもある。バランスというのは難しい。

水素水を信じる人はあほなのか否か

「水素水を飲むようになってから寝起きがいいんです!」(埼玉県  38歳  主婦)

「運動の前に水素水を飲むと脂肪の燃焼が良くなって体重5kg減りました。」(山口県  45歳  会社員)

「水素水でがんが治りました!」(東京都  62歳 自営業)

 

例えば上のような宣伝を見て、水素水すげえ!となるとしたら恐らく騙されやすい性格なので気をつけた方が良いだろう。このブログを読むような人は水素水が健康にいいなんてこれっぽっちも信じていないと思う。無論自分も水素水の効果は全く信じていない。では水素水を信用できない理由はと聞かれるとどう答えるだろうか?少し考えて欲しい。自分の場合はこうである。

エビデンスがない」

全くこれに尽きると思う。他にはどのような意見が考えられようか。水素は水に溶けない?水素水のふたを開けるときに水素が逃げてしまう?水素が体内に吸収されるはずがない?などと答える人をツイッターでよく見かける。曰く、高校程度の理科の知識があれば水素水に騙されることなんてないそうである。

水素水を販売する会社はよくこう言う。水素は体内の活性酸素を除き老化を防ぐ、と。こう言われるとどう反論するべきだろうか。活性酸素が老化の一因になるというのは科学的に根拠はある。水素が活性酸素を除くというのも試験管レベルでは起こってもよいとも思う。こうなるとなかなか高校の理科の知識では対応できないのではなかろうか。では、水素は活性酸素を除き老化を防ぐという主張にはどう答えるべきか。ここでも「そんなエビデンスはないからそう主張するなら証拠を出せ」と答えるよりない。

生命というのはあまりにも複雑で神秘的だ。勃起と一酸化窒素が関係しているといったように。同じ気体の水素が体にどのような影響を及ぼすかをどう理論から導けようか。これはほとんど不可能である。水素が体に良いか悪いかなんて簡単にわかるものではない。実際作用機序がよく分かっていない医薬品も多く上市されている。ここにおいて水素水の効果を人間で確かめる唯一の方法はランダム化された比較試験を行うことだろう。つまりある集団において人々を無作為に2群に分け、一方の群には水素水を、他方の群には普通の水を飲んで生活してもらい、注目する因子について測定する。まあそもそも水素水についてはこのような試験を行うだけのエビデンスがないのであるが。

とすると高校理科の知識で全てを断ずることはできないだろう。だが高校理科の知識が全く無用かというと決してそんなことはなく、水素水は健康にいいと言われたときに、ほんまか?と違和感を感じることができるのは大切だ。違和感を感じたものに関しては情報を鵜呑みにするのではなくしっかり検証せねばならない。理想的には論文等の一次的なソースを利用するのが良いだろうが、無論水素水などにそこまでの労力をかけているほど暇ではないので、例えば水素水を推している人は信用に足るのかとかその主張に無茶苦茶なところはないかなどの情報を利用することになる。

水素水を手放しに受け入れるのは当然危険だ。だがツイッターで水素水はダメという論調があることを以って水素水はダメと盲目的に判断するのも危険ではないだろうか。

 

童貞は恥ずかしい問題

処女は人気あるのに童貞は不人気なのは何故との問いに答えた有名なコピペがある。要約すると、童貞は一度も攻め入ったことのない兵士であり処女は一度も破られたことのない城である。故に処女が価値を持つのは明白であると言ったものだ。初めて見たときはなるほど!と思ったが、この手の言葉遊びには注意する必要があるだろう。男を兵士に、女を城に例えた比喩には巧みなところがあり、そこに性行為の問題を重ね合わせ耳触りの良い理論を構築している。童貞が攻め入ったことのない兵士というのはまあそうなのであろう。しかし処女が一部の男どもにありがたがられているのは、守りが堅い城のごときものであるからではなく、まだ誰にも純潔を奪われていないところとか、槍マンではないところとかが重視されているからであろう。にもかかわらずこのコピペでは処女は守りの堅い城だという。女性は純潔であるべきだという一般には受け入れ難い言説から目を逸らさせるがごときコピペである。少し穿った見方であろうか。

話は変わるが自分は童貞が恥であるという感覚をあまり理解できずにいた。大学はクラスもサークルもいい子ちゃんばっかりだったこともある。まあ頭では理解はしているが、実感としてはちんちんを入れる入れないの何が大切なのかわからないといった具合である。だがTwitterをはじめてこのような感覚が実感とともにわかってきた。ホモとして童貞を卒業するすには、Twitterでひとかどの地位を築き(これには顔面やツイートの質の問題も関わる)、それに続くリアルにおいてもそれなりの成績を残し、最後にはそういう雰囲気に持ち込むと。なかなかの技量を要する。だからこそ非童貞が価値を持つと。陳腐ではあると思うがそのような感覚だけは理解した。

備忘録: 自撮りの気持ち

Twitterを始めて日は浅いが自撮りの重要性にはすぐに気付いた。ただ自分は自撮りが苦手である。というか自撮りをしていると気恥ずかしくなる。ホモの良くないところなのだが、自撮りを多く見ていると、ああこの人はこんな効果を狙ってこの角度からこのポーズで自撮りをしたんだなあというのが瞬時にわかってしまう。そしていざ自分が自撮りをするとなると気恥ずかしくなってしまう。たが自撮りをせぬわけにはいくまい。今回頑張って自撮りをしてアイコンを変えたのでその時の気持ちを記す。

ああ今日は顔面の調子が良い気がする。ちょうど髭も剃ったしめんどくさいけど自撮りをしよう。ここでしないと永遠にしない。この角度はどうだ。これではどうか。微妙やんけ。なんやこれ。もういい。ちょっと変顔風に撮ろう。こんな感じの表情してるホモおるわー。疲れたしこれくらいにしておこう。

結局7.8枚撮って盛れた、というか実際の自分に近そうであると思われるのが変顔風の写真だった。恥ずかしいけどこれにする。

ああああ

ニヒリズムに陥るなんて青臭いしそんなのは高校生くらいまでにしておけなんてたまに言われるけど、どうせ死ぬのになぜ生きるかなんて明確な答えはないし一生をかけて少しずつわかっていくものだと思う。一つよく模範解答としてあげられるものとして他人を幸せにするために生きるのだという。確かにそれを生きがいにしている人は多いし人として正しい態度なのだという気がする。でもやっぱり自分みたいな凡夫としては人間の世界で生きているとほとんど必ず目にする人間の汚いところがいちいち気になって、他人の幸せのために生きるなんて到底できないと思うことがある。なので刹那的に生きることも悪くない、むしろそれが重要だとさえ思う。だからあのテレビが楽しみだからとか、あそこの店のラーメンが美味しいとか、Twitterのイケメンの動向が気になるとか、だらだら続く日常が愉快だとか、そういうものも生きる理由になると思う。目先の快楽に興じるエロ垢が一週間に7回ヤってるのをみても別におかしいと思わないしそれに全力を捧げるような態度は潔くて悪く無い。年老いて売れなくなったら俳句でも音楽でも、なんでもやって過ごしたらいいんじゃ無いかなあ。

子曰、

十五而同性愛垢開始、

十六而初性的体験、

十八而失尻処女、

二十而男同性愛酒店働、

二十三而彼氏作、

二十四而彼氏別、

二十五而発展場通、

三十而全裸鍋会合参加、

三十五而性病感染、

四十而糞返信爺、

五十而孤独人生絶望。

 

孔子 『人生破滅』