エモいと言う人は語彙力に乏しいのか否か

最近ツイッターでよく見る言葉に「エモい」というものがあり、個人的には悪くない言葉だと思うのだが、何でもかんでもエモいと言いすぎといった批判もある。批判としては「何に対してもエモいという言葉を使うのはボキャ貧だ」といったものが多い(たぶん)。エモいという言葉を使わずに自分の思いを伝えるべきだということのようだ。確かにそれができることは素敵なことだと思うのだけれど、エモいという言葉を槍玉にあげるのは的外れな気がするのだ。

エモいという言葉はおそらく、嬉しい・悲しい・楽しい・美しい・心地よい・懐かしい・惜しい・悔しい…などの思いが全て、ないしはいくつかが混じり合った状態を表すものだと個人的に考えている。とすると「エモい」という言葉を他の表現に置き換えることも可能である。例えば「今日の花火大会はエモかった」は「花火は綺麗だったし、友達と行って楽しかった」くらいのものだろう。もしかすると花火を見て昔を思い出して懐かしい気持ちになったのかもしれない。ともかくエモいという言葉は他の言葉に置き換えることができる。しかしエモいという言葉は色々な感情が混ざり合った新たな概念を表すという考えもできるであろう。さらに、それらの感情を代表するものとしてエモいという言葉を使ったというように、エモいはある種の省略表現であると考えることもできる。この時、自身の感情を表すものとして最適な言葉がエモいという言葉であったのであり、エモいという言葉の使用は全く正しい。流行りの言葉というものは批判対象になりやすいから、エモいという言葉を使うなという意見もあるのだろう。だがことの本質はそこではない。その証拠に「エモい」を「嬉しくて楽しい」に言い換えたところで何も変わらないではないか。エモいという言葉に罪はない。問題があるとしたら「どうエモいのか」を詳しく描写しなかったことであろう。まさに問題はこの点である。だからエモいという言葉を他の単語に置き換えたところで何の解決にもならない。エモいという言葉はボキャ貧からくるのではない、単に表現すべき状態の説明不足である。だが、どこまで説明するかは本人の意思の問題である。説明不足だからといって本人を批判することはできない。ただ説明する必要がなかった、説明するのがめんどくさかっただけである。エモいという言葉の使用は当人のボキャブラリーの多寡を判断できるものではない。

そんなことよりももっともっと深刻な問題は「ナイモンでいいねしてきた割に話題の提供を一切行わない者」である。誰しも経験のある根深い問題である。向こうからいいねしてきたということはこちらに何らかの興味を持ったからであろう。それなのになぜ会話を発展させようとしないのか、こちらも相手の意図が分からぬから非常に困惑してしまう。いや、その意図は明らかである。要するに、「セックスはしたいけど、相手のことは興味がない。でも自分から言いだすのもはばかられる。」ということなのだろう。全く呆れる。チンチンの画像と共にストレートに誘ってくるおじさんの方がまだ好感が持てる。

 

水筒を垂直にして飲んだ夏

という句がお〜いお茶のペットボトルに印刷されていて全く関心してしまった。確か小学生か中学生の作品だったように思う。シンプルな作品だけれど(だからこそ)、どれだけ暑い夏だったのか、そして作者がどのようにしてその夏を過ごしたのか、脳天を突き抜けるように伝わってくる。僕が万言を費やして小難しい表現を使ったところで、この素直な作品に敵いようがない。まさに、己の凡夫さを分からせてくれる作品だ(そのようなことでいちいち落ち込まないけれど)。教訓としては、不必要に小難しい語彙を使わないということだ。覚えたての難しい語彙というものはつい使いたくなってしまうものだが、何かを表現しようと思ったら自分に馴染みのあるものを使ったほうがいいだろう。無理やり難しい表現を使うと、平凡な語彙で記した他の部分との釣り合いが取れない。だから己の力量を把握して、文章もそういう風にしたほうがいいと思う。

たまにツイッターで見かけるが、自称論客ツイッタラー(もちろんフォロワーの方ではないので安心を)が、好んでアンチテーゼという語を使っているのを見かける。彼ら好きだよね、アンチテーゼ。内容はともかく、アンチテーゼという語を使いたくてたまらない感じが伝わりまくってきて恥ずかしくなってしまう。だってアンチテーゼという語以外は中学生の文章だもん。異世界からやってきた語彙か?というくらい他の文と不釣り合いなアンチテーゼという語が蛍光ペンで何重にも塗りたくったように目立っていて、もうアンチテーゼしか見えない。

ぼくがゲイになった理由

ブログの更新を放置していた。というのも今月中頃からおそらく風邪だと思うが体調不良が続いていて、心身ともに疲弊してほんとうに何も思いつかなくなっていたからだ。一切面白いことが思いつかないのでもうぼくは終わりだとか思っていたけれど、体調も回復して思考力も復帰した。ぼくのブログはまあ大したことは書いていないけれど付き合ってもらえると幸いだ。

 

せっかくなのでゲイ垢のブログにふさわしい表題で書くことにした。といってもぼくがゲイになった理由なんて大したものではないし明確な理由も特にはないのであるが。

多分生まれたときからバイだった。何故かはわからない。何か遺伝的な要因があるのかもしれないし、環境の影響もあるのかもしれないが、とにかくよくわからないが元々バイであったように思う。男は女を好きになると思い込んでいた分、いわゆるノンケよりというやつだったかもしれない。特に誰かが好きになるとかいったことはなかったが、男も女も性愛の対象であろうということが自然と自分でもわかっていた。そういう中学生であった。ちょうどその頃の人間にはよくあることだと思うが、他人の局部がどうなっているのだろうということが気になる。心理状態によって形状の変化するこの不思議な器官が他人ではどうなっているのか、同じ現象が起きるのか、少年りてうは気になって仕方がなかったが、そういうことを話すタイプの人が周囲にいなかった。そこで少年りてうは買ってもらったばかりのガラケーで色々な画像を検索した。今は通信制限なるものがあるから良いが、つい検索に夢中になって月の通信費が4万円になって問題となったこともある。そういう風にして画像を漁っていたら、いつのまにか男の体にしか興味がなくなっていたのである。男女の体に興味があった状態から男の体にしか興味を持たない状態になるまでの変遷をぼくは意識しなかった、劇場版コナンの冒頭で気付かぬうちに体の縮んでいた新一のように。それに伴って恋愛の対象も男性に限定されるようになったのだと思う。ちなみに恋というものを知ったのはもっともっと後になってからであった。まあただそれだけだ。ぼくの場合、今ゲイであることに大した理由もない。性指向というものは人格を考える上で非常に重要だが、それはいつのまにか、またはぼくのように意識せぬうちに決まっているものなのか。ただの恥ずかしい話であったが、初めてそれっぽいことを書いた。

ぼくの好きな曲

ぼくは通学にそこそこ時間がかかるのでその間は大体音楽を聴いている。ぼくにも好きなアーティストやバンドというものがあって、自分の中での定番曲を聴いたり新曲も聴いたりとまあその辺は普通だ。ふと思ったのだけれど、自分が好きな曲にはアーティストが違えども一定の傾向がありそうだ。でもどういう曲が好きなのか、言葉で表すことをしてこなかった(自分でもよくわからなかったというのもある)。最近ぼくの好みを部分的に説明するようなしっくりくる基準を見つけたのでせっかくなので記しておこうと思う。

ぼくがある曲を好きになるとき、それは歌詞が自分の好みのものであることが多い。歌詞にもいろいろあって、物語性のあるものとかメッセージ性のあるものとかリズム感とかノリを重視したものとかが一例だ。ぼくが好きな歌詞は、とにかく言葉選びのセンスが秀逸で、それぞれの言葉が持つイメージが発散して、それらのイメージが部分的に重なり合って一曲として見たときに一つの概念を作り出しているもの、という感じだろうか。一言で言うならオサレ感だ。言葉にはそれ自体の意味の他に、ぼくたちにイメージを想起させる。この辺は俳句と同じだ。春と聞けば満開の桜で新生活への期待に胸を膨らませ、秋と聞けば鹿の鳴く声が別れを予感させる。夏は愉快で冬は寂しい。愉快な夏には夜中家を飛び出したくなるし、寂しい冬には抱きしめたくなる。東京は冷たい感じのする大都会で夜の街は駆け抜けたい。大阪はぼくのホームで夕焼けの街は静かに眺めていたい。言葉の持つイメージは強大で、それが歌詞になったときにストーリーがなくとも一貫したイメージを伝える。言葉の力を信じきった曲。そんな曲が好きなのだ。

もちろん曲にはこれ以外の要素も山ほどあるが、こちらに関しては別途研究を要する。

ブログ振り返って

ゲイ垢らしきことをブログに書きたいのだがさっぱり思いつかない。ゲイ界隈との関わりが希薄なのが一因だろう。自分はホモの世界でひとかどの地位を築くことに特に価値を見いだせていないのであるが、それでもセクシャリティという共通項のみでできたコミュニティに興味はあるし、面白いと思う。

このブログを改めて見返してみて、およそゲイ垢のブログに見えぬものが多いと思う。そして初めてこのブログを読んでくれた人は何言ってんだこいつとなると思う。頭に浮かんだことを特に何も考えずに書いているだけなので許してほしい。このブログを誰が読んでくれているのかはよく分からないけれど、読んでくれるのは嬉しいものでTwitterでも絡んでくれると大変嬉しい。もしリアルしたときにこのブログの読者と申告いただければ特典付きです。よろしくお願いします。

たばこをすうのはむずかしい

たばこをすうのはむずかしいのだ。技術的な問題ではなく、たばこを「吸いこなす」のが難しい。なぜならたばこをすうことのデメリットが多すぎるからだ。

第一に健康に悪い。肺がんはもちろんのこと、肺以外のがんとか心筋梗塞とか動脈硬化とかとにかくいろんな病気のリスクを上げる。男性の寿命が女性よりも短いのは喫煙率の違いを反映しているという話もある。

第二に匂いが気になる。たばこそのものの匂いは個人的に気にならないが、部屋とか服とかに染み付いた匂いはあまり好きではない。それに加えて体臭もきつくなる気がする。この辺のケアもきちんとしないといけない。

第三に周りに影響を及ぼす。副流煙はもちろんのこと(副流煙のせいで毎年何人の方がなくなっているか、これは想像よりもかなり多いと思う)、最近では喫煙後45分間は呼気に有害物質が含まれという報告もある。気にする人は喫煙後45分以内の人とは会話したくないだろう。1日10本吸えば8時間程度誰かと会話できないとなると行動にかなり制限が出てくる。

第四に世間の目が厳しい。喫煙者というだけで評価が下がる場合もある。喫煙者にも色々な人がいようが、ひとまとめにして評価を下される恐れがある。

 

でもタバコはやっぱりかっこいい、吸ってる姿が様になる人もいるにはいよう。そのような人たちは健康上のリスクを受け入れ、匂い対策もして、周囲の人に悪影響を及ぼさぬように吸っている。これはなかなか面倒くさい。これだけのマイナスを、たばこを吸うかっこよさが上回ってプラスにしないといけないし、それができるのは才能のようなものがあると思う。そういう人はシブくてかっこいい。これだけリスクがあるのだから、スカッとするためだけにたばこを吸っている人が様々なものを失うのは仕方がない。まあ他人に影響を及ぼさねば自分の人生だ。こんなわけで、たばこを吸いこなしている人に会ってみたいと思う。ちなみに自分は非喫煙者だ。

芸能人炎上問題

芸能人のスキャンダルとか炎上とかは、遠い世界の話で特に関心がないけれど、これはと思うものが最近話題になった。某有名野球選手がトンデモ医療本を紹介して、医療関係者に袋叩きにされたアレだ。要点だけ述べると、その選手は高タンパクが体にすごくいいというトンデモ本をトンデモと知らずにTwitterでフォロワーに勧め、医療関係者がそれはトンデモ本だからツイ消ししろというようなリプをし、選手も反論、ついには多くの医療者が選手を批判する騒ぎになった。

これに関しては科学的にも医療者の主張は正しいと思う。有名でそれだけ影響力のある人がトンデモ本を紹介すると、どれだけの人間が間に受けるだろうか。それは凄まじい数ではなかろうか。選手の落ち度としてはトンデモ本を見抜けなかったことと、自身の影響力を考慮せずに発信したことであり、実際それを医療者に厳しく指摘された。そこで選手が該当ツイートを取り下げればよかったものの、医療者の強い口調(僕にはそう思えた)に触発されたのもあると思うがほとんど口論のようになってしまった。

医療者の主張は正しいが、当該ツイートを取り下げさせるのに袋叩きにするのは個人的にまずいと思うのだ。Twitterをやっててわかったことだが、相手の主張が間違っていて、それを改めさせるのに正論は有効で無い場合が多い。今回は少なくとも選手は間違ってはいるが善意で当の本を紹介したはずであり、そこを真っ向から否定されて気分を害したのであろう。本当に当該ツイートを削除してもらう目的を達成したいのなら、批判して対立を煽るよりも、当人の善意を認めつつ懐柔させるような方法が有効だと思うのだ。人は誰しも自分の専門において誰かが間違ったことを言うととにかく批判したくなり得ようが、専門家ではない普通の人と接するときはある種の余裕を持って対峙したいものだと自戒とともに思った。