柿食へば

柿食へば  鐘が鳴るなり  法隆寺

の句は言わずと知れた正岡子規の代表作で、日本で最も有名な句の一つといっても過言ではない。正岡子規は生涯で20万の句を残したそうだが、その中でこの句が最も有名であるのは考えて見ると不思議である。俳句は分からぬが、少し考えて見ることとする。

文法的にも釈然としない点がある。「柿食へば」のところは、已然形+助詞「ば」で、「柿を食べるといつも」か「柿を食べていると」の二通りの解釈ができようか。前者は現実的にその状況が想定しにくいので、解釈としては後者が正しい気がする。だが個人的には、助詞「ば」を後者の用法で使う場合、動詞としては知覚に関連する語を用いるイメージがある。例えば「見れば」「思えば」のような具合に。ただこれは統計を取ったわけではなく、あくまでイメージである。なので「食へば」のところには若干の違和感を感じる。単に「柿を食べていると」ということを表しているのだとすると他に言いようはいくらでもある気はする。だがこれらの表現では語法が弱いというか、印象に残らないかもしれない。

句意としては「柿を食べていると法隆寺の鐘がなって秋を感じた」と解するのが一般的であり、その意をそのまま句に起こしたような作品で、要するにシンプルな作品である。知覚を介して感じたことがそのまま句に表れているというのが、この句の斬新なところであり広く受け入れられるきっかけとなったのであろうか。詳しい人から解説を聞きたいものだ。